秀学ゼミナール

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08月

ウソシリーズ 「わかる」→「できる」のウソ①

 

「わかる」→「できる」のウソ①

 

「東大のディープな日本史2」(相澤 理著)という新書があります。前著「東大のディープな日本史」の続編なのですが、その「おわりに」の文章が秀逸だったので、ここで若干取り上げてみたいと思います。

この本は東大(東京大学)の日本史の過去問を著者自身(予備校講師)が解きながら歴史への造詣と認識を深めていくという体裁をとっています。東大の問題は東大の先生方が投げかけてくる難問の意図を的確に掴み、簡潔にまとめ上げて答案に仕上げなければいけません。

古代、中世、近世、近代各時代から大問が四題、小問が一、二題という構成で、全てが100字前後の記述式(さすが東大)という形式です。

そこでは、限られた時間の中で、条件として与えられた資料を読み、その裏に潜む真実を探し求めながら、記憶にある歴史的知識を総動員して解答を練り上げる知的なバトルが繰広げられます。

まさに論理的思考力が試されるのです。

そんな本の「おわりに」にこんなことが書かれています。

『「はじめに」で問いかけたこと(著者は「東大入試の本質は〈暗記〉である。」と言っています。〈論理的思考力〉と言い立てる講師ほど考えていないと)に、ちょっぴり格好をつけて答えると、東大の先生方が入試問題で受験生に求めているのは、〈未知なる他者に対する誠実な接し方〉なのではないか。』

そしてこう続けます。

『相手のことをきちんと理解するには、余計な思い込みや偏見を脇に置いて、真正面から向き合わなければなりません。(中略)先人は〈未知なる他者〉に出会ったときの、最も誠実で、深い理解にたどりつくやり方を、私たち現代人に伝えてくれています。それは、他者をまるまる呑み込むこと、すなはち〈暗記〉です。』

さらに

『人は、わからないもの・未知なるものからしか学ぶことができません。そして、それを学ぶことの〈意味〉も、あとになってからわかるものです。そもそも、学ぶ前から〈意味〉のわかっていることなど、 それこそ学ぶ〈意味〉などないでしょう。そうした学びの構造を理解していた先人は、だからこそ「素読(意味を考えずにただ声を出して読むこと)」を学習の基本とし、「読書百篇、意おのずから通ず」と説きました。〈意味〉はあとからわかる。だからこそ、「考える前に覚えろよ」なのです。』

確かにそうなのです。ともすると私たちは「わかる(わかった)」から「できる(できた)」と考えがちです。しかし実際はその逆、「できる」→「わかる」の流れで情報を処理しています。

以前に読んだ「小学生、学力急上昇の勉強法」(富山市立五福小学校校長 杉田久信著)の序文にも同様のことが書かれています。

『多くの学校では、「できる」よりも「わかる」を優先する教えかたになっています。しかし、私たちは「できる」を「わかる」よりも先にします。たとえば「わり算」のときは、まず計算の手順を教えて、それを反復練習させて計算が「できる」ようにして、その後で意味を「わかる」ようにさせます。教室での「子どもの事実」から、練習を繰り返していくうちに「わかる」に到達させるほうが身につきやすいと実感しているからです。』

「かけ算(九九)」を段ごとに暗記していって、すらすら言えるようになる。覚えられて楽しくなる。テストで満点を取る。自信がつき、算数大好きとなる。こうなったらしめたものです。そしていつか気づくのです、「2×3」が「2+2+2」の意味なのだと。「わかる(理解)」は「できる」の後にやって来ます。

もちろん学校の勉強では「わかる(理解)」が先でないといけない単元もありますが、多くの場合「できる」から「わかる」なのです。

ゆとり教育の弊害なのでしょうか。よく「自由に創造してみましょう」などと言う先生がいますがナンセンスです。「心のひきだし」が空っぽなのに(十分な情報量がない)何かを創りだす(創造)ことなど不可能です。