秀学ゼミナール

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ひとり言

教育ブログ 「よなはTのひとり言」㉝

ここ数年、「自学力」という言葉をよく使わせていただいております。
私の考える「自学力」とはズバリ「問題解決能力」のことです。

人生に立ち向かうとき、いろいろな問題が待ち構えています。
そのどれにも答えが用意されているわけではありません。

自ら考え、計画を立て実行し、確認(チェック)する。
そうやって、問題を解決する。言いかえれば目標を突破していく。

社会にでると色々な困難が待ちかまえています。
そういう局面をどう乗り越えていくか。
答えは自分で探さなければなりません。答えが用意されていない問題を解かなくてはならないのです。

でも心配はいりません。分からないことは、人に聞いたり、調べたりすればよいのですから。

しかし、それだけでは不十分です。
人に聞くときでもその態度(礼節)や誠意が相手に伝わらないと本当のことは教えてくれませんし(コミュニケーション能力のスキルアップも大切)、調べる時もどこをどういうふうに調べるのかという基礎知識や、方法を知らないと答えにたどり着けません。

でもまだ不十分です
孔子も言っています。
『学びて思はざれば則(すなは)ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則(すなは)ち殆(あやふ)し。』
(「学ぶだけで、思索しないと、道理がはっきりしない独断に陥って危険だ。」文英堂:「理解しやすい漢文」より引用)

つまり人に聞いたり、調べたりした知識を自分の頭でよく「考える」ことをしないと何の役にも立たないということです。

そこで「考える」とはどういうことでしょう。
「考える」とは物事の道理を見究めること。
道理を見究めるためには論理的な思考力を身につけることです。
結局、私たちは言葉を使って物事を考えています。

より広く、深く考えるためには言葉の世界を広げることが肝要です。
「自学力」の根幹はまず、語彙(ごい)力をアップすることです。

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真理にたどり着こうとして、細分化していき、顕微鏡で観察する。
結局、生命現象を成り立たせている正体は闇の彼方にあって姿を現さない。
分かろうとして分けていったのに分からない。「why?」の陥穽に陥ります。
しかし、細分化していった過程で欠落しているものに気づきます。
顕微鏡で観察している試料は生きていないのです。
一瞬を永遠に留めたくて、わたしたちはカメラのシャッターをきります。実体を手に入れたい。でも、その映像は影にしかすぎません。
欠落したものの正体『それは流れである。
エネルギーと情報の流れ。
生命現象の本質は、物質的な基盤にあるのではなく、そこでやりとりされるエネルギーと情報がもたらす効果にこそある。(同前掲書)』
あらゆる因子が時間の流れのなかにあってそのどれもが一対多の関係を持っているとすると、その現象を微分したところで「原因と結果」という因果関係は次の瞬間、逆転しているか『また別の平衡を求めて動いている。(中略)世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからない(同前掲書)』のです。

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以前、「分かる」の語源は「分ける」だと書いたことがあります。
「一」を「刀」で切る。「一」が二つに離れて「分」のできあがりです。
知識、情報を分類して、整理する。
その流れの中で私たちは物事を理解します。
英語でも動詞を「一般動詞」と「be動詞」に分けますよね(なぜ分けるか知りたい人は、秀学ゼミナール能見台校へお越しください)。
自分と他人、ヒトとサル、機械と人間、部分と全体、ふたつのものに境界線を引いて区別し、対比させて世界を認識する。
二項対立させることで差異を明確にする。
そうやって世界を分かろうとします。
生命科学の世界でも同様です。
『生命は臓器に、臓器は組織に、組織は細胞に分けられる。(中略)今度はたとえばタンパク質を分けていくと、その構成単位であるアミノ酸に分解できる。アミノ酸は単なるありふれた物質だ。(「世界は分けてもわからない」福岡伸一)』
ところが分けていった単なる物質が
『ひとたび組み合わさると動き出す。代謝する。生殖して子孫を増やす。感情や意識が生まれる。思考までする。(同前掲書)』

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『お疲れさま』このあいさつが今回のテーマです。
こまったことがあって、生徒たち(全員ではないのですが)が帰る時にこの『お疲れさま』を使うのです。
職場であれば、このあいさつも適切なのでしょうが、教室で聞くと、『バイト(アルバイト:ドイツ語の「はたらく」という動詞由来)の終わりではないのになぁ』と違和感を抱いてしまいます。
『お疲れさま』は、たいへん良い響きをもった素敵な言葉だとは思いますが、この場合は『さようなら』がふさわしいのではないでしょうか。
とは言うものの「あいさつ」や「ことば」はTPO(time:時,place:場所,occasion:場合)の使い分けが難しいです。
「何か物を配達してくれた人に『ご苦労さま』と言うと、上から「目線」でよろしくないので『お疲れさま』と言うのが正しいのだ。」という意見をよく耳にします。
『でも何かしっくりこないよね。』とある生徒と話していたら、その生徒も同じように感じていたらしく『ありがとうございます』が良いのではと答えてくれました。
確かに、感謝の意を表するならこの「ことば」はぴったりだと感心させられました。
さっそく駅のトイレで『ありがとうございます』を使う機会があり、さわやかな時を過ごせました。

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3年前のことをふと、思い出しました。
ある生徒が、とても「イスラム国:Islamic State」のことを気にかけていました。
そのことにまつわる「国際関敬」のお話にお付き合いください。
「イスラム国」がしたあのような行為が許されるはずもないし、どんな理由があるにせよ人を殺していい道理もありません。
善悪で判断すれば「悪」であることは間違いありません。表層的に見ればそういうことになるのでしょう。正義など「イスラム国」にはないのです。
だから、「決して、テロには屈しない」のだとばかり、アメリカは、「IS」の勢力下に空爆の準備を進めていました。
「無知の知」ソクラテスは言いました。世界は広いのです。知らないことの方がはるかに多い!だからといって、知らないことに平然として、知ろうともしない態度はとても危険なことです。
「無知」は人を傷つけます。誤った認識のもと、なんの罪もないイスラム教徒に危害が加えられたりしていました。
「IS」出現の背景を探っていくと、アメリカのイラク進攻に思いが至ります。
国際関係は国と国との利害のぶつかり合いです。理想の大義で覆われたベールの下には、自己の利益しか追及しない「どす黒い本音」が露わになってきます。
世界地図を眺めれば一目瞭然、中東やアフリカ諸国の国境線のなんと不自然なことか!
直線で引かれた国境線を「人為的国境線」と呼びますが、エゴむき出しの線がそこには見えます。20世紀初頭の英仏の主導権争い。さらに遡れば、十字軍のレコンキスタ。いつしか世界は欧米型の価値観一色になっています。
危険はむしろ、そちらにあるのかもしれません?

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今回は「ハレとケ」の話。
「ハレとケ」とは「柳田國男(民俗学者)によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ」とウィキペディアに書かれています。
「ハレ」を漢字にすると「晴れ、霽れ」、「ケ」を漢字にすると「褻」となります。
「ハレ」は儀礼や祭などの年中行事。つまり非日常的な祝祭空間や時間のことです。
婚礼の日に「晴れ着」を着るとか、「晴の舞台」と今でも言ったりしますね。
それに対して「ケ」は平々凡々とした日常を表すことばでした。
「ハレ」の語源は「晴れ」だそうです。「晴れていて気持ちがいい」などと天気のことに今では使いますが、江戸時代までは、長雨が続いた後に天気が回復した特別な節目を「晴れ」と記したそうです。うっとうしい日々が続いて気持ちが滅入っているときに、ぱぁーと晴れあがった。
そんな爽快感、開放感のあることばだったようです。
当時は農業を生業(なりわい)にしている人がほとんどでした。
天気に左右される農作業はとても辛かったと想像されます。そういう日常を「ケ」と考えました。収穫が終わり農閑期に、待ちに待った「祭」がありました。
みんなその日を楽しみに待っていました。お酒をたくさん飲んで酔っ払ってバカ騒ぎしたり、鎮守の森で男女が自由に交合ったり、特別にそんなことも許される空間と時間でした。
そうやってつらい労働:「ケ」を祝祭:「ハレ」が開放し救ってくれたのです。
鹿児島の方言で「だれやめ」というのがあります。仕事が終わり家に着く前に酒場で一杯ひっかけて、今日の気分を〆(しめ)てリセットする。呑兵衛(のんべえ)が飲むよい口実にも聞こえますが、言いえて妙だと思います。
かくのごとく、現代は都市化し「ケ:仕事」と「ハレ:祝祭空間」が一日に訪れる、目まぐるしい時代になりました。
そういうオアシスを手に入れて、なんとか、このストレスを乗り切っていっているのかもしれません。

教育ブログ 「よなはTのひとり言」㉗

前にも書きましたが、大晦日に除夜の鐘を聞き百八つの煩悩を払ってもらい、都合の悪いことは水に流して、新たな気持ちで新年を迎える。大晦日はなんと便利な装置なんだろうと。
水に流して気持ちをリセットする。我々は気づいていないかもしれませんが、日本に脈々と流れている心的伝統なのかもしれません。
時の流れを一端切って、まっさらな状態から始めたい。4月からは新年度がスタートします。
まっ白なキャンバスにはどんな素敵な絵がかけるのでしょうか。
「タブラ・ラサ(白紙)」からの出発。
しかし、どうあがいてみたところで、時間の流れは止められません。
「不可逆」!時を遡ることはできないのです。
「あの時に戻れたらなぁ」溜息が聞こえてきます。
生徒たちもよく呟きます。すかさず私は、こうきりかえします「時をもどす方法を二つ知っているよ。知りたい?」「はい!」「一つ目はね、ドラえもんとお友達になること!もう一つは、タイムマシンを発明することだよ!」と。
一つ目は完全に無理でしょうが、二番目は可能性は0ではありません。
「でもね、タイムマシンを発明するには、今の何十倍も勉強しなくてはいけないね?結局、もっと努力しなさいということかな」。
しかし、思うことがあります。ビデオ、やHDDの発明はちょっとしたタイムマシンなのではないかと。
見たい番組を録画して、自分は別の場所にいて好きなことをしている。後で番組を楽しむ。
CMをとばしたり、画面をストップしてトイレに行ったり
。連続ドラマや勉強のための教養番組を取り貯めて、結局見ないで消去してしまう。
時間を伸ばすことはできても、寿命は伸ばすことができない!欲望を満たそうとして、それを消化できないジレンマに陥ってしまう。
何のための発明だったのか?焦燥感を抱いて多忙の海に身を捨てることになるのです。

教育ブログ 「よなはTのひとり言」㉖

今日のテーマは「考える」です。
ある進学受験業界のパンフレットに記されていた内容を少し紹介しましょう。
それによると「考える」とは獲得した「知識」をどう使い、どうつなぎ合わせる(関係づける)かだと書かれています。
つまり「考える」ためにはその前提となる「知識」がないと「考える」ことすらできないということです。
「学習」とは究極「考える」ための材料である「知識」を蓄積することなのです。
そして経験したことや失敗から多くを「学習」し「悩んだり」「考えたり」しながら脳の中に強固な回路(ネットワーク)が形成されます。
最近の研究では「小脳」がその機能に関係していることが分かってきました。
常に「考えて」いると、この回路がますます鍛えられていくそうです。
生きていれば、不測の事態に直面することも多くあるでしょう。
そのほとんどの答えを自ら解かなくてはならないのです。
学校の試験と違って答えがあらかじめ用意されているわけではないのです。
つまり、「考える力」言いかえれば、問題解決能力を磨くために学習をするのです。
みなさん、「考え」ましょう。

教育ブログ 「よなはTのひとり言」㉕

バレンタインデーにちなんでというわけでもないのですが「チョコレート」の話をひとつ。
「このチョコドリ(チョコレートドリンク)うまいね!」
あなたはとろりと甘い風味を堪能します。「ああ、幸せ」。
ところで、このチョコの原料、カカオ豆は主にガーナから輸入されています(西隣のコートジボアールが世界一の生産国、ガーナは2位、日本は70%をガーナから輸入)。
『モノカルチャー』といって主要な産業がないところでは、外貨を獲得するために単一(mono:モノ)農産物を国をあげて生産するのです。
旧宗主国(かつてその国を植民地支配した国)イギリスが、ジャングルを切り開き(プランテーション)カカオ豆の栽培を始めました。
現地の人たちを劣悪の環境の下に置き、低賃金(賃金ははたして支払われたのか?)で働かせたのです。
その産業構造からなかなか抜け出せないのです。
取り立てた資源がない国では、近代化のカギは「教育」です。
しかし、初等教育を受けられない子供たちも数多くいます。
教育にはお金がかかります。子供たちがカカオ農園で働いているのです。
さらに悲劇的なことに、その子供たちはカカオが何に使われているのかを知りません。
チョコレートを食べたことがないからです。
さて、日本の平均寿命は、男女とも80歳を超えました。
戦後で唯一、対外戦争をしてこなかった国ということを誇りに思っている国民も多いでしょう。「平和、平和」と唱えていれば、あるいは「平和憲法があるから」この『平和』は安泰なのだ?この『チョコドリ』一杯を全地球民が等しく享受するためには、この惑星がもう2個半なければならないそうです(先進国の生活水準を全世界で送るためには)。
ガーナの平均寿命が60歳?だとしたら、我々は、20年の時をガーナの人たちから奪っていると考えるのは私だけでしょうか?

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「抽象化」は際限がないと前回で書きましたが、究極的には「世界」とか「宇宙」に行きついてしまいます。
われわれが、この「世界」で生きているかぎり、この「世界」のことを知りたいと希求するのは当然ですし、この「世界」を記述しつくしたいという欲望は無限に増殖し続けるでしょう。
福嶋はまた「抽象」と「具体」は「相対的」なものだとも言っています。
「ライオン・とら・おおかみ」つまり「肉食動物」つまり「動物」つまり「生き物」。
「肉食動物」は「ライオン」にくらべれば抽象的ですが、「動物」にくらべれば「具体的」です。
「相対的」とはこういうことです。このことは「ライオン・とら・おおかみ」<「肉食動物」<「動物」<「生き物」と表すこともできます。
数学の集合の考え方です。
「生き物」の部分集合が「動物」、その部分集合が「肉食動物」…。
「ライオン」を中心に置くと、その外側の円が「肉食動物」その外が「動物」という同心円の世界が広がります。
中心へ向かう矢印が「具体化」、中心から遠心へ向かう矢印が「抽象化」です。
福嶋は「マトリョーシカ(ロシアの人形で、人形の中に人形が、またその中に人形が…)方式」と名付けました。
「抽象化」の道筋をたどるときに、迷う場合は接続詞「つまり」ではなく「という」でつなげてみましょう。
「北海道・東京都・鹿児島県」つまり「日本」。なにかしっくりしません。
そこで、「北海道・東京都・鹿児島県」という「日本の地名」。しっくりと落ちつきました。
抽象化は要点をまとめるときに非常に役に立ちます。
「具体化」はものごとを細分化(分ける=分類)するとき有効な方法です。
「分ける」は「分かる」と同じ意味をもちます。